「食物アレルギー」とは、食物を摂取した際、身体が食物に含まれるたんぱく質等(アレルゲン)を異物として認識し、自分の身体を防御するために過敏な反応を起こすこと。その患者数は、年々増加しています。
ハウス食品グループは、食物アレルギーの方やその家族のみならず、「あらゆる人の食の選択肢を増やし、食で豊かな人生を送れるように」と願い、いち早く食物アレルギー対策に取り組んできました。
日本で食物アレルギー表示が法制化されてから20年余り。ハウス食品グループの食物アレルゲン分析法開発について、平尾宜司さんにお話を伺いました。
平尾 宜司(ひらお たかし)
1992年ハウス食品工業株式会社(現・ハウス食品株式会社)入社。研究員として有用成分の探索や評価など基礎研究に携わり、1996年から食物アレルゲンの分析法開発に従事。農林水産省研究機関にて遺伝子組み換え作物の分析法開発などにも携わる。2013年からハウス食品グループ本社株式会社に出向し、2019年より基礎研究部長。最近は、家庭菜園で収穫した野菜で料理を作るのが余暇の楽しみ。
日本において、食物アレルギーによる健康被害の大規模な実態調査が行われたのが1998年。そして食物アレルギー表示制度が施行された(表示が義務化された)のは2001年のことでした。平尾さんが食物アレルゲンの分析法開発を打診されたのは、その数年前である1996年のこと。アメリカの学会で欧米の食物アレルギー表示の動向を知った上司の助言で、開発に着手することになったのです。
「そのときはまだ、日本で食物アレルギー表示制度が施行されるかどうかもわからない状況でした。ただ、将来的に食物アレルギーが社会問題になりそうだということは海外の動向からもわかっていて、食品メーカーの研究員として、このテーマに取り組むことに大きな意義があると感じました。まずは自社製品の品質管理やお客様への情報提供という目的で、研究をスタートさせました」(平尾)
食物アレルゲン分析では、製品や原料中に食物アレルギーの原因となる食品が含まれるか否かを分析します。当時、食物アレルゲン分析法は、原因となる食品のたんぱく質を検出する「ELISA法(エライザ法)」が主流でした。ところが、平尾さんはDNAを検出する「PCR法」の開発をしたい、と上司に提案します。
「ELISA法は競合も多く、今から取り組んでナンバーワンになるのは難しいと思ったんです。そこで、『せっかくやるなら、世の中でまだほとんど報告されていないPCR法の開発をやりたい』と提案しました。でも、上司も私もなかなか考えを譲らず、議論は紛糾。最終的には上司が折れてくれたのですが、後日談として『彼は頑固なんだよね』と上司が周囲にもらしていたことを耳にし、申し訳なく感じました(笑)」(平尾)
研究は手探りでのスタートだった、と平尾さんはふり返ります。当時、研究所にはDNA分析のための設備も、DNA配列情報を取り扱うためのノウハウもありませんでした。また、90年代後半といえば、インターネット環境もようやく整備されてきたころ。膨大なDNA配列情報をどう解析するか、試行錯誤だったといいます。
「海外のDNA配列情報データベースの活用法を学んだり、既存の実験設備を活用してできるだけ安価に実験する工夫をしながら、研究環境を整備していきました。参考文献を取り寄せたらドイツ語で書かれていて、倒れそうになったこともあります(笑)。そのときは、上司が辞書を引いてくれて、翌日には『単語を訳しておいたから読んでみたらどうだ』と手を差し伸べてくれましたね。ほかにも、日々の実験やデータ解析についても、非常に深く討議をしてもらったりと、周囲の協力や理解がありがたかったですね」(平尾)
食物アレルギーは数ppm(1ppm=100万分の1)の微量なアレルゲンでも発症することがあるため、分析法においてもごくわずかな量を検出する感度の高さが求められます。同時に、研究環境ひとつで間違った結果につながる恐れがあるので、通常の化学分析に比べて"もう一段階上のクリーンな環境"を作ることに心を砕いたといいます。
「たとえば室内に小麦粉が舞っていたら、それが誤検出につながる可能性があるわけです。そのため作業ごとに実験室を変えたり、作業着は毎日持って帰って洗濯したり。そばの分析法の開発中は、昼食にそばを食べないように気をつけていました。また、近年では新型コロナウイルスの検査で耳にする機会も増えたと思いますが、PCR法は個々の食品等に特有のDNA配列を何百万倍にも増幅させ、可視化することによって、その食品等を含むか否か判定します。分析後の増幅産物が次の分析試料に混ざってしまうと、本当は入っていないのに入っていると認識され、誤った結果になってしまう。試料汚染を防ぐため、トライ&エラーをくり返す毎日でした」(平尾)
ハウス製品からDNAを抽出していると、「いったいなにをしているの?」と周囲から奇異な目で見られることもあったといいます。植物や微生物と違って、加工食品は複合的な原材料で構成され、製造工程で加熱されています。DNAを抽出するのは容易ではありませんでした。
「たとえば、『とんがりコーン』はDNAを抽出するのに苦労しました。PCR反応を阻害する成分を含むコショウ製品にも手を焼きましたね。その分、きれいなDNAを抽出できたとき、そして分析結果が製品開発などに役立ったときはうれしかったですね」(平尾)
ときには、期限的にも技術的にも難しい課題にぶつかることもありました。そういうときこそ、平尾さんは「なにか工夫したら解決できるんじゃないか」と楽観的に考えることを心がけてきたそうです。
「絶対にできないと思ってしまうと、たぶん本当にできなくなってしまうので。一時期、自転車通勤をしていたことがあって、研究室とは違う環境で、違うことをしていると、頭がスッキリするというか。そこでパッとよいアイデアを思いつくこともありました」(平尾)
1996年にPCRによる食物アレルゲンの分析法開発をスタートさせてから約30年にわたり、平尾さんは食物アレルギー研究に取り組んできました。2001年には「PCRによる大豆の分析法」を日本農芸化学会で発表、2003年には「PCRによるそば、落花生の分析法」を日本アレルギー学会総会で発表します。以降、研究を通して得た技術成果や知見を毎年のように学会や専門誌で発表し、実績を重ねてきました。2005年には「PCRによるそばの分析法」の論文が、日本農芸化学会の英文誌B.B.B.の論文賞を受賞しています。
研究当初から目標としていたのは、第一に食物アレルギーのお客様に安全・安心な製品と正確な情報をお届けすること。そして技術面では、「感度」と「特異性」に優れた分析法を開発することでした。
「高感度というのは、わずかなアレルゲンでも検出できること。特異性は、たとえばそばの分析法であれば、そばだけを検出し、それ以外のものを検出しないということです。また、食物アレルゲンはそば1種類だけではありませんし、今後も増えていくと考えられました。どのような食物アレルゲンに対しても、共通する設計思想に基づき開発できる分析法をめざしました」(平尾)
平尾さんがひとりでスタートした研究でしたが、やがてメンバーが増え、チームで取り組むようになりました。ときにはチーム内の意見が折り合わず、議論になることもありましたが、研究は効率的かつスピーディに進むようになりました。ひとりであれば妥協しそうな部分でも、メンバーとともにこだわりを持ち続けて研究することができ、平尾さん自身にとっても学びが多かったといいます。チームのメンバーに、直属の上司、そして特許の出願などをサポートしてくれた知的財産部のスタッフなど、多くの方に支えられてきた、と平尾さんは笑顔で語ります。
こうして平尾さんたちは、国の研究機関とともに、2005年から「えび」「かに」「キウイフルーツ」「もも」「りんご」、2017年から「小麦」「そば」「落花生」、2021年から「くるみ」のPCR法開発を進めてきました。えび、かにのPCR法は、2009年に公定法化(※)。小麦、そば、落花生、くるみの定性リアルタイムPCR法は、2023年に公定法化。また、開発した技術は試薬メーカーにライセンス提供し、検査キットとして広く販売されるようになりました。そして今年、一連の食物アレルゲン分析技術に関わる「PCRによる食物アレルゲン検査法の開発」「公定法化」「市販キット化」の研究活動に対し、『日本農芸化学会2024年度大会』において農芸化学技術賞を受賞したのです。
※ 公定法とは、政府や関連組織によって定められた検査法のこと。
「社内だけでなく、試薬メーカーの方など、多くの人たちの協力や力添えがあって進めてきたことが評価され、大きな賞につながったことが本当にうれしかったですね。受賞式後にみんなで記念写真を撮ったのですが、最近では、いちばんお気に入りの写真になりました。これをきっかけに、ハウス食品グループが食物アレルギーの研究や製品に対して真摯に取り組んでいることを知っていただけたらと思いますし、この受賞を食物アレルギーに関する取り組みを今後さらに前に進めるための後押しにしたいですね」(平尾)
農学部出身の平尾さん。もともとは食品の製品開発を志望して入社しました。ですが配属されたのは、食に関する基礎研究や製品の品質向上などを担う基礎研究部門。当初の志望とは違いましたが、基礎研究部門での研究に従事するなかで、平尾さんの考え方は少しずつ変わっていったといいます。
「当時、製品開発部門の方たちをうらやましく思うこともありました。自分が開発した製品が店頭に並び、お客様に届けられる喜びは大きいだろうな、と。私が配属された基礎研究部門というのは、研究の出口としての"製品"を持っていないわけです。試薬メーカーさんから『御社のPCR法の技術を検査キットとして販売しませんか?』とお声がけいただいて、『自社で製品化しなくても、ライセンス提供して世の中に役立ててもらうチャンスがあるのだ』と気づいたのは大きな収穫でした。また、国が定める検査法として公定法というものがあることも他部署メンバーに教えてもらい、"公定法化して社会に貢献する"ということも目標になりましたね」(平尾)
最後に、研究を続ける上で平尾さんが大切にしていることを教えていただきました。
「研究者にとっていちばん大切なのは『独自性』だと思っています。同じ研究テーマだとしても、誰が研究するかによってアプローチや結果は絶対に違ってくるものだと私は考えています。ですから、若い研究者にも自分なりの工夫やアプローチを大切にしてほしいですね。研究テーマを自分で見つけるもよし、会社に研究テーマを与えられた場合においても、そのなかに面白みをひとつ見つけることが最初のステップだと思います。面白みが見つかると、研究テーマを『自分ごと化』できる。『自分ごと化』できれば、自分なりのアイデアやアプローチを加えてみようという気持ちが湧いてくるのではないかと思います」(平尾)
独自性の積み重ねが研究者として専門性を高めることにつながり、専門性が高まればそこで初めて見えてくる課題も出てくる、と平尾さんはいいます。
「企業の研究者として研究を進めていくと、人とのつながりができて、自社のみならず、他社や他機関と協力して研究する機会も増えます。考え方が異なる研究者から刺激を受けたり、それがより大きな成果につながったり。そこが企業の研究者の面白みだと思いますね。当社の研究所は、与えられた課題を提示されたやり方で進めていくのではなく、自分で工夫を凝らして研究に取り組める風土があります。『自分ごと』として捉えると、発想も湧いてくる。研究者としても企業人としても、そうした姿勢が求められるのかなと思います」(平尾)
これからもハウス食品グループでは、あらゆる人の食の選択肢を増やし、食で豊かな人生を送れるようにと願って、日々研究・開発に取り組んでいきます。後編では、平尾さんと共に食物アレルギー研究に取り組む研究員の皆さんにお話を伺います。
取材日:2024年6月
内容、所属等は取材時のものです