日本の食物アレルギー表示制度が始まる2001年以前から、食物アレルゲン分析技術の開発に着手してきたハウス食品グループ。表示制度の変更に対応するため、食物アレルギーに関する社会課題にいち早く取り組んできました。
ハウス食品グループが開発した食物アレルゲンの分析技術のなかでも特に注目すべきものに、「えび」「かに」PCR法(※1)と小麦定性リアルタイムPCR法(※2)、そして、大麦やライ麦等を含む製品であっても、小麦たんぱく質の含有量を正確に測定できる小麦LC-MS/MS法(※3)があります。
※1 PCR法とは、DNAを増幅する手法のこと。特定のDNA領域のみを高感度に検出可能。
※2定性とは、食物アレルゲンの量ではなく、有無を判定すること。
※3食物アレルゲン分析におけるLC-MS/MS法とは、たんぱく質をペプチドに分解して測定する手法のこと。
「えび」「かに」PCR法は、「えび」と「かに」が甲殻類として一括りに表記される諸外国に対し、「えび」と「かに」を区別して表示する日本特有の制度を実現させるためのキーとなり、これは
世界初の技術となりました。
小麦定性リアルタイムPCR法は、加工度の高い食品に含まれるダメージを受けた小麦DNAの検出を可能にした技術で、食物アレルゲン検査の精度向上に大きな貢献をしています。
最新技術を用いた小麦LC-MS/MS法では、これまで測定できなかった大麦やライ麦等を含む食品中の小麦量が測定できるようになり、小麦のコンタミネーション(※)の評価に役立てられます。
※ コンタミネーションとは、原材料として使用していないにもかかわらず混入してしまうこと。
前編では、ハウス食品グループの食物アレルゲン分析技術開発の第一人者である平尾宜司さんにお話を伺いました。後編では、平尾さんと共に開発に従事した、基礎研究部の渡辺聡さん、宮﨑明子さん、田口大夢さんにお話を伺っていきます。
目次
渡辺 聡(わたなべ さとし)
1994年ハウス食品入社。残留農薬分析技術や遺伝子組換え作物分析技術の開発などを経て、2004年より食物アレルゲン分析技術の開発に従事。「えび」「かに」PCR法、定性リアルタイムPCR法等の開発研究に携わる。現在は、LC-MS/MS法の開発を進めるとともに、新たなDNA解析技術の導入、活用に携わる。(※)
宮﨑 明子(みやざき あきこ)
1995年ハウス食品入社。食品分析やタマネギ育種の業務を経て、2012年より食物アレルゲン定性リアルタイムPCR法等の開発に従事し、2016年より小麦LC-MS/MS法等の開発を行う。現在もLC-MS/MS法開発を進めるとともに、弘前大学を中心とした産官学民のプロジェクトにも携わる。(※)
田口 大夢(たぐち ひろむ)
2004年ハウス食品入社。2005年から食物アレルゲン分析技術の開発に従事し、「えび」「かに」PCR法の開発に携わる。製品課題の解決業務やスパイスの品質に関する研究等を経て、現在は弘前大学を中心とした産官学民のプロジェクトに従事している。(※)
※ 3名とも、2013年からハウス食品グループ本社株式会社に出向。
まずは、世界初の技術である、食品中の「えび」「かに」を高精度で検出するPCR法についてお話を伺います。このPCR法は、「えび」や「かに」にアレルギーのある方たちの安全を確保するための重要な一歩となりました。
ハウス食品グループでは、2008年の表示制度改定に向け、世界で初めて「えび」と「かに」を識別して検出するPCR法を開発しました。これにより、海外で一括りにされる「甲殻類」という表記とは異なり、「えび」と「かに」を区別して表示する日本独自の表示制度に対応することが可能になり、さらに、ハウス食品グループのアレルゲン分析技術において、2009年に初めて公定法化(※)を果たしました。
※ 公定法とは、政府や関連組織によって定められた検査法のこと。
「えび」、もしくは「かに」特有のDNA配列を区別して検出する世界に先駆けたPCR法の開発を本格化させたのは、2005年の厚生労働科学研究班に参加したことが始まりでした。
食物アレルゲン検査法の開発を目的としたこの研究班では、医療機関を対象とした全国実態調査で当初から患者症例数が多く、症状が重篤ということから「えび」「かに」の表示義務化に向けた取り組みが行われることになりました。
「実は2004年~2005年の全国実態調査で、えびアレルギーのある方のうちの約35%はかにを食べても発症しないことがわかりました。そこで検討されたのが、諸外国のような『甲殻類』表示ではなく、『えび』と『かに』を区別した日本独自の制度です。『えび』もしくは『かに』のどちらか一方を食べられる方に配慮し、食の選択の幅を広げる考えがありました」(渡辺)
「この研究班に入り、心を突き動かされたことがあります。それが、『アレルギーのある人には健康危害を起こす一方で、アレルギーのない人には栄養である。えびアレルギーの方のうち3割はかにを栄養として食べられる。その方たちが、"かにを食べて楽しめる"ことを大切にしたい』という専門医の話です。この先生の話に非常に共感し、研究に邁進しよう!と奮起しました。生活をする上で食物アレルギーが脅威になる方がいることを認識し、我々の技術を役立てたいという想いが、今も研究のモチベーションにつながっています」(渡辺)
ただ、当時の技術では、ELISA法(エライザ法)(※)で"甲殻類"の検出はできても、「えび」と「かに」を識別する方法はありませんでした。そこで白羽の矢を立てられたのが、平尾さんの先見の明により既に開発に着手していたDNAを分析するPCR法です。
※ ELISA法とは、特定のたんぱく質を検出・定量する方法のこと。
世界初の技術となった「えび」「かに」PCR法は、技術開発に約3年、精度評価に約1年の歳月を費やし、公定法化を果たしました。日本の公定法に採用されるには、"特異性"(※)と"高い感度"が求められ、難易度の高い技術開発が必要とされます。さらに、「えび」と「かに」の表示義務化に向けた検討が急速に進む中で、検査キット化までを完了しなければならないスピードも必要で、緊張感がありました。
※ 特異性とは、目的とする物質に対してのみ反応する性質のこと。反応する範囲が目的と合っている場合に、特異性があるといえる。ここでは、目的の食物アレルゲンのみを検出し、他の食物を検出しないこと。
「甲殻類の『えび』と『かに』はDNA配列が似ているうえに、えび類、かに類はそれぞれ種類も膨大です。従って、『えび』の検査法では多種類のえび類のみを検出し、かに類やほかの甲殻類が検出されないように区別する特異性が求められます。当時はPCR技術の開発に十分なDNA配列情報がデータベース内にそろっていなかったので、築地などに出向き、多種多様なえびやかに、えびやかにと混ざる可能性の高い貝や魚などあらゆる海産物を買い集め、100を超えるDNA配列情報の解読に奮闘しましたね。とにかく膨大な数のDNA配列の整備とPCRに使用するプライマー(※)の設計検証に明け暮れました。特にプライマーの設計には様々な技術の導入を試みましたが、それは容易なことではありませんでした」(田口)
※ プライマーとは、PCRで増幅したいDNA配列の両端に結合するDNA断片のこと。プライマーを起点に増幅が始まる。両端のプライマーが結合するか否かで特異性が決まる。
なかでも研究員の皆さんが苦労したのは、あらゆる検査機関で同様の分析結果が出ることを証明する、公定法としての精度を評価する試験でした。
「開発した検査法が公定法として妥当な精度をもつと判断された時は非常にうれしかったです。地方の衛生研究所や食品メーカーなど、数多くの社外研究・分析機関に協力していただき、試験を実施しました。当社では精度評価試験の取り組みが初めてだったので、各機関の試験で使用する、微量のえびやかにを意図的に配合した加工食品モデルを何度も作り直したり、分かりやすい試験説明書を作成したり、事前の予備試験を行う等、万全の準備を整えました」(田口)
渡辺さんは、公定法の開発において、国立医薬品食品衛生研究所の専門家や他の高い専門知識を持つ方々から支援と連携の機会をいただいたことを強調していました。このプロジェクトを通じ、公的機関と民間企業が連携し、食品業界全体で品質を検証する検査法を開発する醍醐味を味わえたと感慨深く語ってくれました。
次は小麦定性リアルタイムPCR法(※)や、大麦やライ麦等を含む製品であっても、小麦たんぱく質の含有量を正確に測定できる小麦LC-MS/MS法の開発についてお話を伺います。
※ 小麦定性リアルタイムPCR法は、小麦含有の有無をリアルタイムに測定する検査法のこと。
ハウス食品グループが開発した小麦定性リアルタイムPCR法は、信頼性の高い技術として評価され、公定法化されています。さらに、小麦LC-MS/MS法は、小麦アレルギーのある方たちの安全を確保するうえで極めて重要な技術であり、小麦アレルギーのある方々をはじめ、皆さまに安心して商品を選択いただくことに役立てられます。
「えび」「かに」PCR法の次に、ハウス食品グループの開発した検査法が公定法化を果たしたのは、2023年にくるみが表示義務化されたタイミングでした。実は、その10年以上前に国の機関との取り組みが開始され、その後、精度評価試験を経て、2020年には「小麦」「そば」「落花生」それぞれの定性リアルタイムPCR法をキット化していましたが、公定法への追加には至っていませんでした。
「半ば諦めていましたが、くるみ定性リアルタイムPCR法と同時に、「小麦」「そば」「落花生」も一気に公定法として日の目を見た時には、これまでの苦労が報われたと胸をなでおろしました」(宮﨑)
「小麦の検査で最初に行うELISA法は、小麦の含有量を数値化できますが、大麦やライ麦、エン麦にも反応してしまうため、小麦だけの量を正確に測定することはできません。そのため、ELISAで陽性判定が出た加工食品の第二段階の確認検査として活用されるのがハウス食品グループの小麦定性リアルタイムPCR法です。この方法では、高感度化に加え、表示義務となるレベルの小麦を含む加工食品を、検査分析者が迷うことなく陽性と判定できる基準を設け、誤判定リスクの低減を図りました」(宮﨑)
「小麦定性リアルタイムPCR法の開発で困難を極めたのは、分析環境の空気中に浮遊する小麦が試料に微量混入して、誤判定が出てしまうケースでした。そこで、小麦の混入がごく微量の場合は陰性と判定できる量的な判断基準を設けました」(渡辺)
小麦の検査法については、PCR法から進化させた定性リアルタイムPCR法のみならず、LC-MS/MS法(小麦定量法)といった新技術の開発にも成功。食品業界における大きな課題であった、加工食品への小麦のコンタミネーションを正しく判定するための一助になりました。
加工食品に小麦が混入しているとわかれば、食品会社も流通や生産プロセスをたどって、混入した原因を探ることができます。ただし、小麦定性リアルタイムPCR法では"混入の有無"を確認できても、"量"は算出できません。それを解決したのが、ELISA法で偽陽性となる大麦やライ麦等を含む製品であっても、小麦たんぱく質の含有量を正確に測定できる小麦LC-MS/MS法です。この検査法なら、大麦やライ麦と区別してわずかな小麦の混入量も数値化できます。
「以前は、社内の製品開発部署に尋ねられても報告できなかった小麦の混入量を、自信をもって伝えられるようになり、大きな喜びを感じました」(宮﨑)
さらにLC-MS/MS法は、複数のアレルゲンに対し、混入量を一度の分析で測定できるため、今後の発展が期待されます。小麦以外のアレルゲンでもこの分析技術を応用した検査法の開発に取り組んでいます。
ハウス食品グループが開発した検査技術の進歩は、食品安全に対する取り組みを大きく進歩させました。特に、公定法化を果たした「小麦」「そば」「落花生」「えび」「かに」「くるみ」の検査技術は、確認検査で欠かせないツールとなっています。
この検査で使われるPCRキットは、技術のライセンス先である株式会社ファスマックより販売されています。そして実際に食物アレルゲン検査に使用しているのが、ハウス食品グループの一員であるハウス食品分析テクノサービスです。今回、分析者として検査に携わる向後さんに定性リアルタイムPCR法の検査キットの使用感についてお伺いしました。
「定性リアルタイムPCR法は、従来のPCR法に比べて感度が高く、リアルタイムで情報を収集できる実用的な検査法に進化しています。従来のPCR法は、対象のDNA配列を増幅する反応の後に、対象となる長さのDNAの有無を確認する作業が必要でした。キットを用いた定性リアルタイムPCR法では、装置に入れるだけで増幅される様子がリアルタイムでグラフ化され、判断基準との差を一目で確認できます。このキットによって、陽性・陰性の判定に迷うことなく、検査時間も短縮され、非常に使いやすくなりました」(分析テクノサービス 向後さん)
ハウス食品グループの一連の食物アレルゲン分析技術が評価され、2024年3月、日本農芸化学会の創立100周年記念となった東京大会において、栄誉ある農芸化学技術賞を受賞しました。受賞の喜びを研究員の皆さんに語っていただきました。
「平尾さんを中心に続けてきた20年を超える研究成果や功績が評価を受けたことに感慨深い思いがありました」(宮﨑)
「2000年以前から充実した研究環境を提供してくれた会社への感謝の想いと、権威ある日本農芸化学会から認めていただいたことの喜びが大きいです。着実に積み上げてきた私たちの技術が世の中に役立ったことを実感できた受賞となりました」(渡辺)
「他にはない独自の分析技術の確立、食物アレルギーのある方々の食の選択肢を広げる社会的貢献、そして論文や学会発表に留まらず、誰もが活用できる公定法としての産業的貢献を合わせた評価だと思います。一連のアレルゲン分析開発は決して利益を追求できる分野ではありませんが、食品への安全・安心に対する私たちの姿勢を世の中に強く発信できたのではないでしょうか」(田口)
食物アレルギー表示制度の施行から20年以上が経過し、食物アレルゲン分析の研究開発も新たなステージに突入しています。研究員のみなさんの今後の研究への想いから、未来への展望が見えてきました。
「医師による食物アレルギーの食事指導も、アレルゲンを食べない完全除去から、問題なく食べられる量を摂取する、食べて耐性を得る方向に変遷しています。食品に含まれるアレルゲンの"量"を表示する仕組みづくりができれば、食物アレルギーのある方々のより豊かな食生活への貢献ができるのではないかと考えています」(渡辺)
「個人個人に合わせてアレルゲンの量を調整したパーソナライズフードを提供するシステムを構築できれば素晴らしいですね」(宮﨑)
「私は現在、食物アレルゲンに関する研究には直接携わってはいないのですが、食を通じてSDGsがめざす"誰一人取り残さない"につながる取り組みを行っています。そのひとつが、現在携わっている弘前大学COI-NEXTの『岩木健康増進プロジェクト』です。大規模な健康診断で取得した情報を用いた食スタイルと健康との関連を見出す研究により、健康にアプローチした新しい価値づくりをめざしていきます」(田口)
ハウス食品グループの食物アレルゲン分析技術に多大なる功績を果たした研究員の皆さんは、現在もそれぞれの分野で食の安全・安心を支える取り組みに挑戦しています。
ハウス食品グループは、新たな段階を迎えた食物アレルゲン分析の研究に関して、今後も医師や食物アレルギーのある方、そしてその家族が求める情報を見据え、世の中の変化に対応した技術開発を進めていきます。そしてこれらの研究の成果が、社会全体に良い影響を与え、安心して食事ができる未来を築く一助となることを願っています。
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取材日:2024年5月
内容、所属等は取材時のものです